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ハワイ特集(はじめに)(1)ハワイ諸島編④歴史

公開日:

更新日:2019/06/30

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アローハ

『はじめに』(1)ハワイ諸島編ー④歴史(ハワイ王国の滅亡)

ハワイ王国もいよいよ最後の時がやってきます。

それは米国による王国転覆と米国への併合です。少なからず日本も関わっています。

皆さんは日本に最初に訪れた初の国家元首はハワイのカラカウア国王だと言うことをご存知でしょうか?そして明治天皇と赤坂離宮にて謁見し、日本の天皇家(東伏見宮 依仁親王13歳)とハワイ国王家(リケリケ王女とスッコトランド人との子・カイウラニ皇太女5歳)の縁組を打診してきました。何とカラカウア国王は米国ではなく日本の併合または連邦を望んでいたのです。しかし明治天皇及び日本国政府はこの時、カラカウア国王の打診を丁重にお断りしています。この時の日本は未だ欧米列強に対しての国力増強の時であり、米国と戦争になっても勝ち目がないと判断したのではないかと思われます。(あくまで私の主観です)

(以下ウキペディア引用)
ハワイのカラカウアは強大化するアメリカ系勢力を牽制しようと日本を盟主とする東洋諸国との同盟やベイオネット憲法の廃案を画策するなど王権の復古を試みたが1891年1月20日、志を貫徹することなくサンフランシスコにて没した。

1891年、カラカウアが渡米先のサンフランシスコで客死すると、リリウオカラニは女王として即位、共和制派との対決姿勢を強めた。1892年、ハワイ人らの新憲法制定の請願を受け、1893年1月14日、国王権限を強化する憲法草案を閣議に提出して否決された。

1月16日、王政派と共和制派が共に大集会を開くなど騒然とする中、危機感を募らせた共和制派は、米国のスティーブンス公使の要請によりアメリカ海兵隊がイオラニ宮殿を包囲、翌17日には共和制派が政庁舎を占拠し、王政廃止と臨時政府樹立を宣言した(ハワイ革命)。

列強の幾つかの国が臨時政府を承認した一方で、王国の独立を支持する日本は、邦人保護の名目で軍艦を送るなどしてこのクーデターに不快感を表明した。米国政府は最終的に、この「革命」が不法なものであると認め、スティーブンス公使を更迭すると共に、元下院議員ジェームズ・ヘンダーソン・ブロントを中心とする調査団を派遣したが、臨時政府はこれを内政干渉として突っぱねた。これに対し1894年2月、上院議員ジョン・テイラー・モーガンを中心とした調査団は共和制派を支持する報告書をまとめた。

ハワイ人による反対集会が繰り返される中、1894年7月4日、臨時政府はサンフォード・ドールを大統領として共和国の独立宣言を行なった。翌1895年1月6日、王政派が反乱を起こすが、数日の銃撃戦の後に新政府軍に鎮圧された。1月16日リリウオカラニの私邸より、あるいはイオラニ宮殿の庭からたくさんの銃器が見つかったとして、リリウオカラニは反乱の首謀者の容疑で逮捕され、イオラニ宮殿に幽閉された。1月22日、反乱で捕らえられた約200人の命と引き換えに、リリウオカラニは女王廃位の署名を強制され、ハワイ王国は滅亡した。

※歴史にタラレバを持ってきてはいけませんが、もしこのとき日本政府がカラカウア国王の縁談をお受けしていたら、太平洋の半分は日本の領土となり、真珠湾にも日本の連合艦隊が入港してハワイ王朝は違う形にはなるでしょうが、存続していたかも知れません。そして当然ながら真珠湾攻撃もなかったでしょう。 

マハロ

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